昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に不快感を持っていたという内容の、元宮内庁長官のメモに関するニュース。
靖国神社参拝の問題に少なからず影響があるでしょうが、くだんのメモの内容は、短絡的に考えず、 まず冷静に受止めなければならないでしょう。信憑性の検証も必要でしょうし。
これから8月15日へ向け、タイムリーといえばタイムリー。しかし、このタイミングは、 何らかの政治的意図があるように思えますね。
毎日インタラクティブ
昭和天皇:靖国合祀不快感に波紋…遺族に戸惑いも
「だからあれ以来参拝していない。それが私の心だ」。富田朝彦・ 元宮内庁長官が残していた靖国神社A級戦犯合祀(ごうし)への昭和天皇の不快感。さらに、合祀した靖国神社宮司へ 「親の心子知らず」と批判を投げかけた。昭和天皇が亡くなる1年前に記されたメモには強い意思が示され、 遺族らは戸惑い、昭和史研究者は驚きを隠さない。A級戦犯分祀論や、 小泉純一郎首相の参拝問題にどのような影響を与えるのか。
■A級戦犯の遺族
「信じられない。陛下(昭和天皇)のお気持ちを信じています」−−A級戦犯として処刑され、 靖国神社に合祀される板垣征四郎元陸軍大将の二男の正・日本遺族会顧問(82)=元参院議員=は驚きながらも、 そう言い切った。
正氏は昭和天皇が参拝を中止したのは、A級戦犯合祀とは無関係だとの立場を崩さない。「三木(武夫) 総理(当時)が昭和50(75)年に現職首相として初めて参拝し、その秋の国会で論議になったため、 陛下はその後参拝できなくなったのだと私は思うし、さまざまな史料からも明らかだ。A級戦犯合祀は、 陛下の参拝が止まった後のことだ」と話す。その上で「(富田元長官が)何を残され、言われたかは関知しない」と言った。
同様にA級戦犯として合祀される東条英機元首相の二男輝雄氏(91)=元三菱自動車工業社長=は 「そんな話、いまだかつてどこからも聞いたことがない」と繰り返した。「信ぴょう性が分からない以上、言いようがない。 個々の動きでいちいち大騒ぎしても仕方ないよ」とコメントを避けた。
■識者は
昭和史に詳しいノンフィクション作家の保阪正康さんは「昭和天皇は東京裁判の結果を容認し、 A級戦犯合祀はおかしいと判断していたから、想像できる範囲ではある」とし、影響について 「参拝に反対の立場の人たちからは『昭和天皇でさえも否定的』という声が強まるのではないか。 小泉純一郎首相と昭和天皇は靖国について考えが違うことがはっきりした。首相は参拝するのであれば、昭和天皇の判断に、 政治の最高責任者として戦争について見解を改めて述べる必要があるのではないか」と語った。
一方、一橋大大学院社会学研究科の吉田裕教授は 「徳川義寛侍従長の回想で示唆されていたことが確実に裏付けられ、松岡洋右元外相への厳しい評価も確認された。 今後は分祀論にはずみがつく。小泉首相も、少なくとも(終戦の日の)8月15日に参拝をしない理由になるのではないか。 首相の参拝には多少の影響はあると思う」と話した。
日本近現代史に詳しい小田部雄次・静岡福祉大教授は「昭和天皇の気持ちが分かって面白い」と驚き、 「東京裁判を否定することは昭和天皇にとって自己否定につながる。国民との一体感を保つためにも、 合祀を批判して戦後社会に適応するスタンスを示す必要もあったのではないか」と冷ややかな見方を示した。その上で 「A級戦犯が合祀されると、A級戦犯が国のために戦ったことになり、国家元首だった昭和天皇の責任問題も出てくる。 その意味では、天皇の発言は『責任回避だ』という面もあるが、 東京裁判を容認する戦後天皇家の基盤を否定することもできなかったのではないか」と話した。
◇靖国神社とA級戦犯合祀を巡る動き◇
1945年8月 終戦の玉音放送
46年4月 国際検察局がA級戦犯容疑者28人を起訴
6月 松岡洋右被告が病死
48年11年 極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯のうち7人に絞首刑判決
51年9月 サンフランシスコ講和条約調印
56年4月 厚生省(当時)が「祭神名票」 送付による合祀事務に対する協力を都道府県に通知
66年 A級戦犯の「祭神名票」を靖国神社に送付
75年8月 三木武夫首相が現職首相で初めて終戦記念日に参拝。私人としての「参拝4原則」 を強調
11月 昭和天皇が最後の参拝
78年10月 靖国神社がA級戦犯14人を合祀
85年8月 中曽根康弘首相が公式参拝。「宗教色を薄めた形式なら公式参拝は合憲」 との官房長官談話を受けて
86年8月 近隣諸国に配慮して中曽根首相が参拝断念
01年8月 小泉純一郎首相が13日に参拝。以降、毎年参拝
05年6月 小泉首相が衆院予算委員会でA級戦犯について「戦争犯罪人であると認識している」 と答弁
◇内容を精査し、冷静な分析必要
天皇の靖国神社参拝は1975年11月21日に昭和天皇が行って以来、 今の天皇陛下も含め行われていない。同神社や遺族側は、その後も「天皇参拝」を求めているが、 30年以上途絶えたままだ。これまでいくつかの理由が推測で語られていたが、今回の「富田元長官メモ」は、 このうちの一つを大きくクローズアップした。
宮内庁によると昭和天皇は、終戦に際し45年11月に同神社を参拝。その後も数年おきに訪れ、 75年までに戦後計8回参拝した。また、今の天皇陛下は皇太子時代、69年までに戦後計4回参拝している。
途絶えた理由に挙げられるのは(1)78年のA級戦犯合祀(2)対外関係の考慮(3)公人私人問題−− など。靖国参拝推進派はこのうち(3)を取り上げることが多い。75年8月、三木武夫首相は「私人」 の立場を強調して参拝。同年11月の天皇参拝では、政府は「天皇の私人としての行為」と国会答弁した。この点につき、 「公人中の公人」の立場を昭和天皇が熟慮して、その後の参拝を取りやめたとの考えだ。
だが、今回のメモは(1)が大きな理由だったと読める。天皇参拝を求める以上、 遺族側でもこの発言を理由に、A級戦犯分祀論が強まる可能性がある。
一方で、 メモで取り上げられている松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐伊大使への昭和天皇の思いを考慮する必要もある。 「昭和天皇独白録」で、松岡元外相について「恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」 と辛らつに評価。白鳥氏が担当した日独伊三国同盟にも不満を述べている。 信任していたとされる東条英機首相や木戸幸一内大臣らと比べ、冷ややかに見つめていたのは明らかで、 それが発言に反映している可能性も否定できない。
また、合祀されているA級戦犯14人の多くは陸海軍幹部で、2人は元々からの外務官僚。軍人でもなく、 戦死でもなく、靖国神社にまつられることに違和感を語る向きもあった。昭和天皇が何を問題と感じ、 それを今後我々がどうとらえていくか。内容について全文を精査し、冷静に分析していくことが必要だろう。【大久保和夫、 竹中拓実】
毎日新聞 2006年7月20日 11時43分 (最終更新時間 7月20日 14時11分)
asahi.com
昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」 A級戦犯合祀
2006年07月20日11時12分
昭和天皇が死去前年の1988年、靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されたことについて、 「私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」などと発言したメモが残されていることが分かった。 当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が発言をメモに記し、家族が保管していた。昭和天皇は靖国神社に戦後8回参拝。 78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝していなかった。 A級戦犯合祀後に昭和天皇が靖国参拝をしなかったことをめぐっては、合祀当時の側近が昭和天皇が不快感を抱いていた、 と証言しており、今回のメモでその思いが裏付けられた格好だ。
メモは88年4月28日付。それによると、昭和天皇の発言として「私は 或(あ)る時に、A級(戦犯) が合祀され その上 松岡、白取(原文のまま)までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記されている。
これらの個人名は、日独伊三国同盟を推進し、A級戦犯として合祀された松岡洋右元外相、 白鳥敏夫元駐伊大使、66年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取ったが合祀していなかった筑波藤麿・ 靖国神社宮司を指しているとみられる。
メモではさらに、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考 (え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている」と続けられている。終戦直後当時の松平慶民・宮内大臣と、 合祀に踏み切った、その長男の松平永芳・靖国神社宮司について触れられたとみられる。
昭和天皇は続けて「だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた、 と記されている。
昭和天皇は戦後8回参拝したが、75年11月の参拝が最後で、 78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝しなかった。
靖国神社の広報課は20日、報道された内容について「コメントは差し控えたい」とだけ話した。
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《「昭和天皇独白録」の出版にたずさわった作家半藤一利さんの話》メモや日記の一部を見ましたが、 メモは手帳にびっしり張ってあった。天皇の目の前で書いたものかは分からないが、 だいぶ時間がたってから書いたものではないことが分かる。昭和天皇の肉声に近いものだと思う。終戦直後の肉声として 「独白録」があるが、最晩年の肉声として、本当に貴重な史料だ。後から勝手に作ったものではないと思う。
個人的な悪口などを言わない昭和天皇が、かなり強く、A級戦犯合祀(ごうし) に反対の意思を表明しているのに驚いた。 昭和天皇が靖国神社に行かなくなったこととA級戦犯合祀が関係していることはこれまでも推測されてはいたが、 それが裏付けられたということになる。私にとってはやっぱりという思いだが、「合祀とは関係ない」 という主張をしてきた人にとってはショックだろう。
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靖国神社への戦犯の合祀(ごうし)は1959年、まずBC級戦犯から始まった。 A級戦犯は78年に合祀された。
大きな国際問題になったのは、戦後40年の85年。中曽根康弘首相(当時) が8月15日の終戦記念日に初めて公式参拝したことを受け、中国、韓国を始めとするアジア諸国から 「侵略戦争を正当化している」という激しい批判が起こった。とりわけ、中国はA級戦犯の合祀を問題視した。結局、 中曽根氏は関係悪化を防ぐために1回で参拝を打ち切った。だが、 A級戦犯の合祀問題はその後も日中間を中心に続いている。
昭和天皇は、戦前は年2回程度、主に新たな戦死者を祭る臨時大祭の際に靖国に参拝していた。 戦後も8回にわたって参拝の記録があるが、連合国軍総司令部が45年12月、神道への国の保護の中止などを命じた 「神道指令」を出した後、占領が終わるまでの約6年半は一度も参拝しなかった。52年10月に参拝を再開するが、 その後、75年11月を最後に参拝は途絶えた。今の天皇は89年の即位後、一度も参拝したことがない。
首相の靖国参拝を定着させることで、天皇「ご親拝」の復活に道を開きたいという考えの人たちもいる。
自民党内では、首相の靖国参拝が問題視されないよう、A級戦犯の分祀(ぶんし)が検討されてきた。 いったん合祀された霊を分け、一部を別の場所に移すという考え方で、 遺族側に自発的な合祀取り下げが打診されたこともあるが、動きは止まっている。靖国神社側も、 「いったん神として祭った霊を分けることはできない」と拒んでいる。
ただ、分祀論は折に触れて浮上している。99年には小渕内閣の野中広務官房長官(当時) が靖国神社を宗教法人から特殊法人とする案とともに、分祀の検討を表明した。日本遺族会会長の古賀誠・ 元自民党幹事長も今年5月、A級戦犯の分祀を検討するよう提案。けじめをつけるため、 兼務していた靖国神社の崇敬者総代を先月中旬に辞任している。
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《靖国神社に合祀された東京裁判のA級戦犯14人》
【絞首刑】(肩書は戦時、以下同じ)
東条英機(陸軍大将、首相)
板垣征四郎(陸軍大将)
土肥原賢二(陸軍大将)
松井石根(陸軍大将)
木村兵太郎(陸軍大将)
武藤章(陸軍中将)
広田弘毅(首相、外相)
【終身刑、獄死】
平沼騏一郎(首相)
小磯国昭(陸軍大将、首相)
白鳥敏夫(駐イタリア大使)
梅津美治郎(陸軍大将)
【禁固20年、獄死】
東郷茂徳(外相)
【判決前に病死】
松岡洋右(外相)
永野修身(海軍大将)