突然の発表でしたが、新庄らしい引退表明ですね。ひょっとすると、今シーズン終了後 「やっぱり続けることにしました」ということになるのかな、とか、カムバックしてみたりするのかな、 と思ったりしますが(そういうのが新庄らしさでしょう)、引用記事からは引退は真剣な思いのようです。
新庄といえば、ずば抜けた成績ではないけれども、いいところで活躍する華のある選手、というイメージですね。 話題づくりがうまいというか、エンターティナーという感じ。
プロ野球を引退しても、きっと他の分野で活躍していけるでしょう。
毎日インタラクティブ
新庄剛志:らしく、突然 引退をお立ち台で表明
【日本ハム10−4オリックス】希代のトリックスターがユニホームを脱ぐ。日本ハム・ 新庄剛志外野手(34)が18日のオリックス戦後、今季限りで現役を引退する意思を表明した。今季2号ソロを放ち 「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」と命名。7回にはグランドスラムを放ち、 自ら花を添えた。開幕からわずか19試合目。 すべての野球ファンを楽しませてきた男が鮮やかに野球人生の閉幕を宣言した。
泣いていた。ヒーローインタビューに向かう新庄は右手で目頭をぬぐい、意を決してベンチを出た。 「阪神で11年、米国で3年、日本ハムで3年。今季限りでユニホームを脱ぐことに決めました。残りシーズン、 今まで以上に楽しみたいと思います」。開幕からわずか25日目。あり得ない引退表明にベンチ、 スタンドの誰もが立ちつくした。
2回に2号ソロを放ち「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」 と命名した。高田GMは苦笑する。「広報が“こんなコメントですが出していいでしょうか?”と言ってきた。 止めるわけにはいかないからなあ」。7回に満塁本塁打を放つあたりも新庄ならではだった。
もうグラウンドを去っていい。ハーレーダビッドソンにまたがり登場した3月25日の開幕・楽天戦。 4万3000人で埋まった札幌ドームを見回してそう思った。「小2のころ、オヤジ(英敏さん) と石投げしたのを1回から9回まで思い出してた」。満員は北海道に来てからの夢。「自分の仕事は終わったなと」
笑顔で隠していたのは限界に達していた肉体。メッツ在籍時の01年6月19日、 ヤンキースとのサブウエーシリーズにさかのぼる。一塁へ右足から滑り込み、併殺崩れとなって直後の逆転2ランを呼んだ。 「サムライ・スプリント」と語り継がれる激走の代償で左太腿を損傷した。「みんなには分からないけど、 いっぱいいっぱいで」と言う。
ごく親しい人物には熱く人生設計を語ったことがある。「日本で3年プレーしたらヨーロッパに行く。 服のデザイナーになる」。小6年の時にチームがなく、自分でつくったチームが「長丘ファイターズ」だった。 同じ名前のチームで野球人生を終える。過去16年間で1度も打率3割、30本塁打を超えたことがない。だが、 その明るさと破天荒さは誰からも愛された。
新庄が特別アドバイザーに名を連ねる次回の「4万3000プロジェクト」は6月6日の古巣阪神戦 (札幌ドーム)に設定された。「センターで(ユニホームを)脱いじゃう?」とおどけ「命を懸けてやりますよ」と続けた。 もう涙はない。「2度と着られないので。ユニホーム姿を見に来てもらって、豪快なことをしたいなと」。新庄剛志。 記録より記憶に残る男として夢を送り続ける。
≪満身創痍…母に弱音≫新庄が日本ハム入りを決めた2003年暮れ、ある関係者は 「日本ハムで3年やって引退」「その後、デザイナーに転身」との「人生設計」を聞いていたという。 今季はその3年目だった。
「設計」の背景には肉体的な限界があった。右肩やひじ、肉離れを繰り返した両足太腿など満身創痍(い) 。弱音は吐かない息子が母・文子さんに「体はボロボロ」と漏らしている。
阪神時代の同僚で、長年自主トレ・パートナーを務める広沢好輝さん(34)も今年1月、ハワイで 「オレも(体力が)落ちたなあ」と聞き、引退が近いと悟っていた。
開幕前に決意は秘めて臨んだ今季、予想以上に動かぬ体、伸びぬ成績で決断を下したようだ。
とん狂な言動が注目されるが、根は繊細。新庄には苦悩があった。 自身の引退が周囲に及ぼす影響は計り知れない。球団も集客力を期待する。
この時期の引退表明に理解を示すある関係者は「最後の新庄劇場幕開けかもしれない」と話す。引退で 「再び満員に」と苦悩の選択を行ったとも見えた。
スポーツニッポン 2006年4月19日