ポーランド大統領が乗ってロシアに向かっていた飛行機が着陸に失敗し、大勢の死者が出ているそうです。 大統領の安否は今のところ不明。
ポーランドの政治体制では、実権を握っているのは首相であり、 大統領は国家元首ではあるけれども象徴的な存在のようです。しかし、 この墜落で政府の要人が多数亡くなるという事態になっている可能性が高いのでは。
ポーランドは過去の歴史からロシアとの関係は良くないようです。ポーランドの大統領はロシアに批判的、 対して首相はロシアとの関係改善を図りたいようです。
大統領がロシアに向かっていた理由がはっきりとわかりませんが、 70年前に旧ソ連軍がポーランド人捕虜を2万人以上虐殺したという「カチンの森事件」 の追悼式に出席するためだったのでしょうか?
着陸失敗、ということもあるにはあるでしょうが、よりによって大統領機でそんな事故を起こすなんて・・・・ というのが率直な感想。
ポーランドとロシアの関係において、「カチンの森事件」は大きなしこりの一つのようです。その追悼式に関連して、 ロシアに批判的な大統領がロシア領の空港で飛行機事故にあった、というのではそれこそ様々な憶測が飛び交って当たり前、 という状勢ですね。
2010.04.11 02:28 追記
残念ながら搭乗していた全員が亡くなったようです。事故原因を解明すべく委員会が組織されるようですが、事故の真相は・・・?
産経ニュース
87人死亡とロ当局 ポーランド大統領機墜落で
2010.4.10 17:14
ロイター通信によると、ポーランドのカチンスキ大統領が乗った航空機が10日、 ロシア西部スモレンスクの空港に向け着陸体勢に入ったところ墜落した。大統領の安否は不明。ポーランド当局者が明らかにした。 タス通信によると、ロシア非常事態省当局者は同日、87人が死亡したと述べた。
大統領は、第2次大戦中にポーランド軍将校ら2万人以上が旧ソ連に虐殺されたロシア西部の「カチンの森」 事件から70年を迎えるのに合わせ、ポーランド側が主催する追悼式に出席する予定だった。(共同)
2010.4.3 19:10
ソ連が2万人以上のポーランド人捕虜を虐殺した「カチンの森事件」から70年となる今年、 後継国ロシアとポーランドの間で歴史的和解に向かう動きが出ている。 ロシアのプーチン首相はポーランドのトゥスク首相を7日の追悼式典に招き、「スターリンの犯罪」に言及する見通しだ。しかし、 事件の全容は今もって解明されておらず、当時のことを聞き知る現場周辺の住民も、過去を封印するかのように口を閉ざしていた。 (ロシア西部スモレンスク州グネズドボ村 佐藤貴生)
死の穴
ベラルーシとの国境にほど近いスモレンスク市街から約20キロ。カチンの森は周囲に人家もない街道沿いにあった。 森の外れに追悼記念館ができたのは2000年で、 4400人以上が眠るポーランド兵の墓地には1人ひとりの名前や生年月日などが刻まれたプレートが延々と並び、 赤くさび付いていた。
記念館のガリーナ・アンドリエンコワ副館長(50)は、 「主に3つの収容所に入れられた捕虜たちはほぼ同時期に銃殺された。内務人民委員部(NKVD) は遺体を埋める大きな穴を前もって用意し、周到に計画していた」と話す。
ソ連共産党書記長スターリンが大量銃殺を承認する文書に署名したのが40年3月5日。 4月3日には南東に約380キロ離れたコゼリスク収容所からカチンの森への捕虜移送が始まり、 5月20日には収容所に1人も残っていなかったという。
重荷
ポーランドは18世紀、ロシアなどに3回にわたり分割された。第二次世界大戦後も長くソ連の勢力下におかれた。 事件は複雑な両国関係にさらに濃い影を落とした。
そうしたなか、プーチン首相は今年に入り、記念館で7日に行う虐殺70周年の追悼式典にトゥスク首相を招請、 同意を得た。両国首相がカチンの森で顔をそろえるのは初めてだ。これを機にポーランドではロシアへの融和感情が急速に広がった。
プーチン首相の思惑についてロシア版ニューズウィークは、「(カチンの森事件は) スターリン時代の政治局とNKVDの犯罪だったと位置づけ、終止符を打つつもりだ」という露外務省高官の談話を掲載した。
しかしトゥスク氏招請には政治的計算もちらつく。ロシアは今年1月、 天然ガスを2037年まで安定供給する協定をポーランドと締結、対露関係改善を掲げるトゥスク氏は 「ロシアとイデオロギー論争をするより、氷点下10度になる冬のことを考える方が重要だ」と述べた。一方、 厳しいロシア批判で知られるカチンスキ大統領は、式典に招かれていないとの情報もある。
沈黙は金
カチンの森の近隣の村で事件を知る高齢者を探したが、話してくれた人はほとんどいなかった。唯一、71歳の女性が 「20代のころ、話を聞いて知っていた」と明かしたが、それ以上は話そうとしなかった。「沈黙は金」 というスターリン時代の教訓が、森の周囲ではいまも生きているようだった。
記念館にはスターリン時代にスモレンスク周辺で大粛清の犠牲となった推計6500人のソ連国民もまつられているが、 こちらの墓地には犠牲者の名前を示すプレートは1枚もなかった。イーゴリ・グリゴリエフ館長(65)らによると、 身元を証明する公文書はいまも機密扱いが解かれないからだという。
「全容解明には海外の声や次の世代の努力が欠かせない」。館長はそういって、「スターリンの犯罪」 の闇の深さにため息をついた。
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【用語解説】カチンの森事件
第二次世界大戦開戦直後の1940年春、ソ連軍がポーランドから連行した将校ら約2万2000人を銃殺した事件。 ソ連に侵入したドイツ軍が43年4月、スモレンスク近郊のカチンの森で、4千人以上のポーランド兵の遺体を発見、 事件が発覚した。発生から半世紀となる90年、ゴルバチョフ大統領がソ連の関与を初めて認めて謝罪した。