どうも、違和感を感じて仕方がない、美しい景観を創る会による「悪い景観100景」ですが、
現在はサイトが見られなくなっています。
同じように違和感を抱かれている あさみ新聞 さんが100景を考え直す、ということで同じ写真に対して肯定的コメントをする、
という試みをされています。
また、けやきさんからは、創る会の活動に賛同、という立場からコメントをいただきました。
そちらも見ながら、しばらく考えていたのですが、やはり違和感を感じる第一の原因は、「悪い景観100景」が、
現状批判の域を出ていない(少なくとも、悪い景観100景を見る限りでは、そうとしか思えない)からでしょうね。
私自身は「美しい景観を創る」という事自体には賛成です。
が私の生業(設計)によるバイアスがかかっているのかも知れませんが、提案的、建設的な内容では無いこういった話は、
どうも無意味に感じてしまいます。
「これはダメ。だから、こうしたらどうか」ということでないと、なかなか話が発展していかない。ましてや、
経験を積んだプロが集っているのだから、提案的な話が出てきて当り前なのでは?という思いがありますね。
意味があるとすれば、まさに創る会がいうところの、「世論の喚起・興味を引く」 ことに限定されてしまっているのではないでしょうか。例えるならば、学生(社会)へ 「この風景を良くするにはどうするか考えなさい」と課題を出した、と言った感じですね。指導者的スタンス。
社会へ向けて課題を出すことはかまわないと思いますし、それについていろいろと議論するのも良いのですが、
現実には、課題を解決する提案・解決策につながらなければ、美しい景観を実現できません。
が、解決策については、今のところ、「創る会」からは見えてきていません。
ウェブサイトではなくシンポジウムではまた違うのかも知れませんが、大勢への訴求力という点からは、
ウェブサイトで解決策を訴えることが必要なのかな、と思います。
やはり、「創る会」は、景観に関して経験豊かなプロフェッショナルが集っているのだから、
解決につながる提案も同時にされるべきだったではないか、と私は思いますね。
ただ「解決につながる提案も同時にされるべき」というあたりは、指導者的スタンスであれば、 そのようなことは提示しないのかもしれませんが・・・・
と、まあ、違和感を感じるところはあるのですが、賛意の表明なり、違和感の表明なり、 こうした記事を書かせているのですから、「悪い景観100景」は景観に関して、 良くも悪くも人々の関心を集めるという目的を果しつつある、というところであろうし、私は、「創る会」という、 お釈迦様の手のひらで遊ばされているのかな、とも思います。
あさみ新聞
悪い景観100景を考え直す(1)
悪い景観100景を考え直す(2)
(拙文)
悪い景観100景
いさたさんのおっしゃりたいことも非常にうなずけます。学会などでの話は、一般の庶民からすると、遠い世界であれこれ議論している印象を受けがちですが、それが最先端の科学技術の世界なら仕方がないけれど、街づくりなどの場合、身近な問題であるだけに、生活している感じからすると違和感になるのだと思いますし、それはその通りだと思います。私個人としては、様々な関係者が乗り越なくてはいけない壁のように思われます。
ところで、あるHPで、会の主催者のお一人が、美しい景観をつくるのは大変だが、悪い景観はそれに比べれば手間少なく改善できるということが述べられていました。
確かに、美しいという評価を得ている景観は、長い時間の末に成り立っていることが多いと思います。修景で街並みを変えようという場合、50年くらいみないといけないとの話があり、さらに協力してもらう関係箇所も非常に多くなりますが、それに比べて悪い景観(この表現が適切かどうかは別にして)を直すのは、広告であれば規制をしたらいいし、電線であれば電力会社が儲けの一部をまわしていけばいい等、割りとラクに解決できるものもある、ということが書かれていました。
では、電線の地中化など、こういう議論をしている人々の間では、相当前から言われていたのに何故実行されないのかというと、一部の声に過ぎなかったからだそうです。
小泉総理のメールマガジンで電線の地中化の話を出したら、かなり反響があったようで、こうして多くの声が集まると、それを実行するためのお金が動くとのこと。つまり、気にかける人が多くなり、何とかしてほしいという声が集まれば世の中動く(動きやすい)ということではないでしょうか。
特に美しさなどという非常に主観的な基準は、誰かが決めてそれを強制するものではありません。そんなことをしたら憲法に反します。広告でも、やたらに規制する法律や条例をつくると訴訟になった場合、違憲(表現の自由に反する)になる可能性もあります。
そもそも、昨今話題になっている建築確認も、防災や衛生などは誰にも共通事項であるので、はっきりした基準を決めていますが、意匠の良し悪しは個人の判断(憲法で保障されている自由でしょう)によるもので、法律でしばることはできませんから、防災と衛生等の建築基準法を満たしていれば許可するしかないというシステムになっています。そしてそれが多くの問題を生み出してきました。景観法というのができましたが、それでも個人の価値観を縛ることはできないと思います。そんなことをしたら、繰り返しになりますが、憲法の精神に反してしまいます。
法律でできないのであればどうすればいいでしょうか。先の電線のように、多くの人の声にするしかないのではないでしょうか。
そのためには、良くも悪くも景観に興味を持ってもらうことが必要で、いさたさんのご指摘のように、悪い景観100景に違和感であっても、感心を持たれることが、まずは前進であるかもしれないと、再度考えた末、思いました。
(長くなりました。申し訳ありません)
政治的アプローチだとすれば、「悪い景観100景」も、その第1歩であると考えれば納得もできますし、それなりに効果はある(あった)のではないでしょうか。
ところで、先ほど気づいたのですが、その前にすでに‘けやきさん‘がいらしたのですね。2月3日の記事を見て、(こんなコメント書いたかな?と疑問に思い)始めて愚行に気づきました。先の‘けやきさん‘ごめんなさい。
また、いさたさんも部外者の勝手な意見にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
歩いて楽しい、歩きたくなる、そんな町が少しでも増えてほしい、そう思っています。
関係がよくわからないので、とりあえず、この記事内のけやきさんへのリンクは無効にしておきます。(違うけやきさんだったら困るし)