とある旧家から見つかった古文書により、幕末頃の公共工事丸投げの実態の一端がかいま見えたようです。
その工事は、横浜開港に関する道路と橋3橋分の工事で、橋の工事が元請けから下請け、孫請けへと丸投げされ、 途中の激しいピンハネで資金不足に陥ります。これでは開港までに工事が終わらず、諸外国にメンツが立たない、 と幕府が別の業者に「泣きついた」そうです。
現在で考えると、工期の大幅な遅れに対して発注者が受注者に文句を言うことがあっても、別の工事業者に「泣きつく」 というのはちょっと考えられませんね。制度の違いもあるのでしょうが、 当時の幕府はそれほどに弱体化していたということでしょうか。
さて、泣きつかれた業者は清兵衛さんという人だったそうです。
この人が借金をして工事を進め、なんとか開港一日前に完成させました。 過去に幕府といろいろなしがらみがあったのかもしれませんが、 こういう大変なことをしなければならない受注者が昔もいたのですね(^^;
今回見つかった古文書は、工事の後に借金の督促に困り果てた清兵衛さんが、窮状を訴えた手紙だとのこと。
うーむ、幕府は工事代金を結局どうしたのでしょうか・・・・清兵衛さんの借金を肩代わりしたのなら良いのですが、 顛末が気になるところです。
幕末の頃には既に「丸投げ」が行われていたわけです。当然、それよりも昔から丸投げは行われていたはずで、 歴史を遡れば、どのあたりまで遡れるのでしょうか。もしかすると、 国家による土木事業が行われはじめた頃から存在していたのかもしれませんね。
「丸投げ」は「談合」とあわせて、建設業界、また建設関連業界の伝統と言えるでしょう。今はいずれも「悪しき伝統」 というところで、いずれも法の規制を受けています。
ただ、丸投げについては、それなりの技術がある者に丸投げすることで、 できあがる構造物や設計成果の品質があるレベルに保たれる(全く何もわからない者がするよりはるかにマシ)という効果もあります。
一方で、丸投げを許すと、仕事を受注する能力はあるが遂行できないので他者にまわすだけ、 という技術屋としては問題のある業者が幅を利かせ、丸投げ先の技術力のある者が相応の報酬・ 利益を得られない(丸投げ元にマージンを抜かれるため)原因となります。
この場合に問題になるのは、丸投げ元がマージンとして抜く金が無駄遣いではないか? 丸投げ先と直接契約すれば良いのではないか?ということであって、純粋な建設技術とは違うところ、 社会の仕組み的なところにあります。
法規制をしても、根本的なところはそう簡単には変わらないようですね。
asahi.com
公共工事丸投げ、幕末も 横浜開港のドタバタ、古文書に
2009年7月1日16時13分
1859年の横浜開港に際し、幕府によって急ピッチで整備された横浜と東海道を結ぶ「横浜道」。この建設をめぐり、 現代の公共工事をほうふつとさせる「丸投げ」が横行、道路開通が危うく開港に間に合わない事態になっていたことが、 旧家から見つかった古文書で分かった。完成は開港の1日前だったという。
古文書は、幕末、横浜町の総年寄(町政の責任者)を務めた苅部(かるべ) 家の横浜市保土ケ谷区にある子孫の蔵から昨年夏に見つかった。保土ケ谷宿の名主だった苅部清兵衛から奉行にあてた文書で、 横浜開港半年後の安政6(1859)年12月23日付になっている。
文書によると、現在のJR関内駅に近い吉田橋付近から西区の戸部に至る道路と橋3本の工事を、 勘七という業者らが4470両で落札。勘七らはこのうち最も時間と費用のかかる橋の工事を、 785両で平左衛門なる業者に丸投げした。平左衛門もさらに555両で半兵衛なる下請けに請け負わせたという。
丸投げの過程で抜かれた金が多く、作業者に支払う工事資金が不足して工事は停滞。 開港日に間に合いそうにない事態に陥った。このため、幕府は「諸外国に対して威光が保てない」と清兵衛に泣きついたという。
清兵衛は自ら借金をして工事を進め、開港1日前の6月1日に完成させた。しかし、その後、 清兵衛のもとには次から次と金の督促があり、困り果てて窮状を訴えたのが、今回の文書だったという。
横浜開港資料館の西川武臣主任調査研究員は「幕府が開港したといっても、実際は住民の力が大きかった。丸投げして、 費用を途中でピンハネしてしまう構造は150年前も今とほとんど変わらない」。 文書は同資料館の企画展で7月26日まで展示されている。(佐藤善一)
「丸投げ」、耳が痛い話です・・・。
商社でも同じような丸投げは昔から有りまして、
「商社機能論」が問われてきた業界であります。
最近ではIT関連の丸投げの話もあれこれと。
歴史的にはどこまでさかのぼれるのでしょうか。
「丸投げ」はいろいろな業界にありますね。
建設業界も古くからありますから、体質として染みついているようなところもあるかと思います。
歴史で遡ろうとすると、古文書の記録が頼りになるでしょうが、誰かの日記に愚痴のように書かれているのかもしれません。
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。